若かりし頃のことです。
好きな人ができると、当然ながら、その人からも好かれたいと思いました。しかし、その思いは、相手に通じることは限りませんでした。すると「私の思いが通じないのは、アプローチの仕方の問題より、真剣さや深さが純粋さが足りてないからかも」と考えたりしました。そして、より真剣に、深く、純粋に思うようになりました。で、「人事を尽くして天命を待つ」ように構えることができれば良かったのですが、なかなかそうはいきませんでした。「これだけ真剣に、深く、純粋に思っているだから、この思いは相手に通じるはず、通じないはずはない」と勝手に考えたりしていました。結局、思いが叶わなかった時には、落胆したり、悲嘆に暮れたりしたものです。そして、そんな時に、「なんでこんな私の真剣で、深く、純粋な気持ちに応えれくれないの?」と相手を責めるような気持ちにもなりました。
しかし、この時に自分のことは棚に上げていたのです。「かくいう私は、私のことをより真剣に、深く、純粋に思ってくれている人ほど、その人の気持ちに応えてきたのか?」という問いかけを自分にはしていなかったのです。全く身勝手な片思いです。
これと似たことは、友人関係、親子関係にも言えるかもです。相手のことを思って色々と助言したり、親切なことをしても、相手がこちらの期待通りの反応を見せてくれるとは限りません。その時に、落胆ぐらいで済めば良いですが、相手に立腹したり、相手を責めたりしがです。「これだけ相手のことを思って助言したり、親切にしてきたが、通じないのは仕方はい」とはなかなか思えません。
このようなことに関して近年私が考えていることが3つあります。一つ目は、当たり前ですが、「友人や子どもなどに、上手く行くためにとの思いからすることはもちろん、失敗や苦労をさせたくないし、トラブルを避けて欲しいから、助言したり、親切にするということ」。二つ目は「人は相手のことを心から思っていると同時に、もしかしたら、他人を自分の支配権の下に置きたいから、無意識のうちにそうしているのかも」ということ。三つ目は「人は、それぞれに課題や問題を抱えており、それは、本人が解決したり、乗り越えるべき問題で、他人が代わりに解決してはいけないのではないか。学校に例えると、弟の宿題を姉が代わりにやってあげてはいけないのと同じなのではないか。弟が自分で努力してもうまく解けずに助言を求めてきた時には、解法の助言はして良いが、代わりにやってあげてはいけないのではないか。姉が代わりに解くと、それは弟の成長や学びの機会を奪ってしまい、弟の成長の妨害になっているのかもしれない」ということです。
長くなってしまいました。ごめんなさい。