ある一流企業には評判の女性がいました。東大を出た後にハーバードのビジネススクールでMBAを取得して入社してきた超美人の優秀な社員です。多くの男性社員の憧れです。ただ、美人で優秀なせいか、高慢なところもあります。その会社には、清掃会社から派遣されて来ていた中卒の若者がいました。彼は明朗で心優しい青年で、誰にも挨拶をしていました。もちろん、その評判の美人の切れ者さんにも挨拶をしますが、いつも蔑むように見られて、返事は返って来ません。でも、見れば、挨拶は続けていました。で、ある夜のことです。その美人社員がスポーツジムから出て来たところで、数名の柄の悪そうな男たちに絡まれていました。たまたま近くの定食屋で食事を済ませたその青年は、その現場を目撃して、その女性を守ろうとして、男たちに悪さを止めるようにお願いしたのですが、逆に殴られ蹴られて負傷して、倒れてしまい、いつの間にか病院に運ばれていました。翌日、傷だらけの顔で、仕事に行きました。すると、例の女性が近くを通りました。彼女は、昨日助けてくれたのがこの人のように思えて「その傷はどうされましたか?」と尋ねましたが、その青年は「自転車から転げてしまいました」と答えました。女性は、助けてくれたのはこの青年とは思ったものの、人違いと分かり、それ以降は気にせず、相変わらず、挨拶をされても、返事はしませんでした。それから、数か月後のことです。その女性の祖母が認知症で施設に入院することになりました。その女性は、しばらく経ってから、ある日曜日にお見舞いに行きました。すると、その介護施設で、その青年が働いている姿を見たのです。会社では、廊下やトイレの掃除をしています。そして、日曜日は、施設で仕事をしていたのです。噂では、実家が貧しくて、仕送りしているとのことでした。数回、その女性が施設の祖母を訪ねてみたら、その青年は、その施設ではお年寄りの人気者でした。楽しくて、明るくて、親切なので、皆に好かれていたのです。ある日のこと、会社で見かけた時に、その女性はその若者に思い切って尋ねました。「もしかして、介護施設で働いていませんか?」と。すると青年は正直に答えて「本当はいけないのですが、会社には内緒で日曜日に、働いています。家が貧乏なんです。会社には内緒にお願いします」と。
それから数か月して、会社で彼の姿を見なくなりました。それで、彼の同僚の若い人に彼のことを訊いてみたら、「僕はまだこの清掃会社に入社したばかりで、その方のことは知りません。済みません」とのこと。それで、次回、祖母を介護施設に見舞いに行った時に、そこの職員の方に、彼のことを訊いてみました。すると、「あの方は、趣味が登山だったそうですが、数ヶ月前、登山中に、不慮の事故で亡くなられたそうです。我々スタッフも、入居者の方々も彼の死を心から悼みました。本当に、明るく、優しく、思いやりに溢れる若者で、皆に好かれていたのですよ」彼女は、驚きました。それから、彼女はだんだんと変わっていき、高慢さがなくなり、優しく、謙虚になっていきました。そして、40歳目前のある日、ニューヨークの支社長の内示を受けました。しかし、彼女はそれを断り、退職したのです。そして、彼女は、学歴を中卒と偽り、祖母が入所している介護施設とは別の介護施設に再就職しました。そこで、彼女も、入居者のお世話だけでなく、生前の彼と同じように、廊下やトイレの掃除をしていたのです。
彼女の介護施設内での働きぶりは熱心で、入居者にも評判がとても良く、また、同僚からの評価も素晴らしいものでした。それで、彼女はどんどん昇格していきました。そして、彼女がその施設で働くようになってからちょうど10年経過した時、次期施設長を選ぶ選挙が行われ、彼女が圧倒的な得票数を獲得して、施設長に選ばれることになりました。その時、彼女は「多くの皆様からご支持をいただいたことに、心から感謝しておりますし、嬉しく思っています。ただ、施設長を引き受けるにあたり、一つお願いがあります。それは、これまで通り、廊下とトイレの掃除は私にやらせていただきたいのです。それでよろしければ、謹んで施設長を引き受けさせていただきたいと思います」と言いました。彼女がそう言い終わると、皆が盛大な拍手をして、彼女の施設長への昇格が承認されたのでした。
彼女が施設長になって数年後、彼女がかって勤務していた一流企業時代の同僚だった女性が認知症になった母親を連れて施設に入居の手続きにやって来ました。そこで、二人は、10数年ぶりに再会したのです。同僚は、彼女がなぜニューヨーク支店の支店長の内示を受けながら、突然に退社したのか、その理由は知りませんでした。それで、手続きが終わってから彼女に「あの時、今後を嘱望されていたあなたがなぜ急に退職したのか分からずに、色々と噂していたわ。もう、あれから10年以上も経過しているし、良かったら、理由を教えてもらっていいかしら」。かっての同僚は訊いてみました。すると、彼女は意外な回答をしたのでした。「そうね、それは、内示をいただいた時の、夕日の太陽が眩しかったからよ。そう、太陽のせいなの」実は、この二人は大学時代の専攻はフランス文学で、施設長になった彼女はかっての同僚も、大学こそ違え、フランス文学の専攻だったことを覚えていての回答だったのです。そう、あの『異邦人』の主人公が殺人を犯した理由と同じだったのです。理由としては、清掃会社から派遣されていた若者の影響が大きいことは確かだったのですが、それだけで自分がなぜ辞める決断をしたのかは、自分でもよく分からず、西日の眩しさを感じた瞬間に、辞めようと決断したことは本当だったのです。それを、聞いたかっての同僚は「なるほどね。何となくわかる気がするわよ。私も、時に自分でもよく分からない理由から、会社を辞めようとか、離婚しようとか、思うこともあるの」と言葉を返しました。そして、母親を施設に残して家路に向かう頃に、雲の切れ間から、彼女に眩しい西日が差してきたのでした。
以前の同僚が母親を見に施設を訪ねて来るようになってから、時々、二人は色々と話をするようになりました。そして、二人の信頼関係が深まった頃に、施設長は、退職の大きなきっかけが清掃会社から派遣されていた若者との出会いであったことを正直に話しました。それに驚いたかっての同僚は彼がどんな人だったのか気になり、彼のことを清掃会社の人に訊いたりして調べ始めたのです。すると、意外なことが判明したのです。彼は、中卒ということで清掃会社で働いていましたが、本当はなんと東大卒だったのです。なぜ、清掃会社で働いていたかというと、彼の母親が中卒で清掃会社に勤めながら彼を懸命に育ててくれ、塾にも行かせてくれ、彼は東大にも進めたのです。しかし、当時は、中卒で清掃会社に勤務している母親を好きになれず、仲も悪かったのです。それで、母親とは長いこと疎遠になっていました。でも、心のどこかでは母親に感謝はしていたのです。である日、親戚から、母親が脳梗塞で急に亡くなったとの連絡が入りました。そして、葬儀の時に叔父から「母さんはお前のことをいつも心配していたぞ。風邪はひいとらんじゃろうか?野菜はちゃんと食べとるじゃろうか?と。お前は小さな頃から野菜が嫌いじゃったからな」と聞かされました。母の他界後しばくして、彼は勤めていた一流企業を辞めて、中卒と偽り、彼も清掃会社で働いていたのです。